定価2,640円(本体2,400円)
発売日2020年11月25日
ISBN978-4-7917-7326-8
寺山修司にとって〈写真〉とは何か。
既成の芸術ジャンルに囚われることなく活動した寺山にとって、特別な意味をもっていた写真。現実なのか幻想なのか? 東松照明、中平卓馬、森山大道、篠山紀信、荒木経惟らとの交流を辿りながら、寺山にとっての撮る」ことの意味を問う。
[目次]
序章 寺山写真研究の現在
一 寺山と写真
二 本書の構成と目的
第Ⅰ部 寺山修司と写真―一九六〇年代日本写真の伴走者
第一章 写真における〈ダイアローグ〉―時評「カメラによって〝何を燃やす〟」(一九六七年)
一 写真批評に見る〈ダイアローグ〉の理念
二 「無言劇」の黙示―中平、森山、寺山
三 三人の出会いとその仕事―一九六六年まで
第二章 一九六〇年代写真界との理念の共有
一 〈ダイアローグ〉と中平卓馬
「あゝ、荒野」における〈ダイアローグ〉
方法の優先
世界との出会い方
二 匿名という戦略―東松照明「I am a king」から「新宿」へ
「I am a King」
その人選
その意図
「新宿」の〈ダイアローグ〉
寺山と東松
第三章 開かれた書物―単行本『街に戦場あり』(一九六八年)の違和感
一 三つの連載―「ショウの底辺」、「街に戦場あり」、「世界の街角で」
二 〈ダイアローグ〉の功罪―横山明の介入
第四章 森山大道との緩やかな別れ―写真ジャンル論と方法の重複
一 処女写真集『にっぽん劇場写真帖』(一九六八年)の出版
二 寺山の読みの正当性―〈大衆演芸〉というテーマ
三 森山の選択―「等価」の思想
写真批評の写真集
複写という方法―「アクシデント」(一九六九年)
寺山の方法との重複 ―写真における自己遡及的批評
第五章 中平卓馬との理念的決別―写真家と被写体の関係を巡って
一 自己批判の内実―「なぜ、植物図鑑か」精読
写真に滲む〈詩〉の否定
あるがままたらしめる必要性
事物(もの)の視線の組織化
二 寺山の書評―現実か幻想か
カメラの呪術性と「幻想」について
中平への反問
称賛と決別
第六章 「無言劇」の示したもの
一 「見るものと見られるもの」のその後
二 ボクシングの予言
第Ⅱ部 寺山修司の写真―半写真家の仕事
第七章 寺山写真の行方
一 〈私〉という主題―『幻想写真館 犬神家の人々』(一九七五年)の成立
二 ヨーロッパに於ける展開―映像誌『ズーム』での活動その他
三 自虐する半写真家
第八章 さらなる境地へ―仮想敵としての篠山紀信
一 果たされなかった企画
二 劇の写真―『篠山紀信と28人のおんなたち』(一九六八年)
三 『ガリガリ博士の犯罪画帖』(一九七〇年)で生じた亀裂
四 篠山の転機としての一九七〇年代
五 「激写」の〈ダイアローグ〉
「連載 決闘写真論」(一九七六年)
「女ともだち」
自己遡及的批評の放棄
自己遡及的批評の発現
第九章 嘘と〈ダイアローグ〉―写真集『犬神家の人々』(一九七五年)を読む
一 写真の機能―記録と複製への反発
出会いの口実
美術品としての写真
二 《母地獄》を読む
〈母〉のテーマ
《母地獄》のメディア変遷
解釈その一「記憶の修正」―映画、写真集の中の《母地獄》
解釈その二「母への愛憎」―一枚の象徴性
第三の解釈「自立の道程」―エクスプリカシオン・ド・テクスト
作為の果て―向き合うことと写真による写真批評
終章 再び、「街に戦場あり」の三人について
選ばれなかった二人
敬するも遠く―
註
年譜
あとがき
[著者]堀江秀史(ほりえ・ひでふみ)
1981年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化研究室助教。立正大学、学習院女子大学非常勤講師。単著に『寺山修司の一九六〇年代 不可分の精神』(白水社、2020年)、編著に『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』(幻義書房、2018年)、共著に『現代アートの本当の見方――「見ること」が武器になる』、『デザイン化される映像――21.5世紀のライフスタイルをどう変えるか?』(ともにフィルムアート社より2014年刊)がある。